死生観というものを考えてみる


どうも。

前回の投稿で、「俺の死生観は他人とは根本的に違う」と書いた。
では「おれの死生観」とは何なのだろうか?

おれは世の中全ての事象が運(偶然と言い換えてもいい)だと思っている。

例えば、何もないところからビッグバンができたのも運。
その後水素や炭素などができたのも運。
それらの物質が結合して、星ができたのも運。
その中に水がある惑星が存在したのも運。
その水の中に有機物が存在したのも運。。
それらがごにょごにょして単細胞生物ができたのも運。
それらが分裂合体を繰り返し、多細胞生物ができたのも運。。
そいつらが進化して恐竜になったりキリンになったりしたのも運。
その中で道具と火を使う賢いサルがでてきたのも運。。
そしてにも現代に生まれ、日本という国に生まれ、食い詰めない程度の収入がある家庭に生まれたのも運。

これだけ運が積み重るともはやビルの屋上から地上の針の穴に糸を通すほどのタイトロープを渡ってきたがわかる。

今、こうやってインターネットでブログを書いているのもそれを眺めているのも今、”偶然”この時代・この国に生まれたからだ。

「そうやって奇跡的に生まれた大事な命だから大切にしなさい」という人もいるだろう。
だが、おれは死さえも運だと思っている。

さっきの出来事と逆に考えればいい。

何もないところからビッグバンができなかった⇒終了。
以下同文である。

流石にロッククライミングみたいなことはやろうと思わないが、そいつらが頂上に着くか、落下して死ぬか、それも運だろう。
そしてこう考えてみよう。
あなたが朝起きて「行ってきまーす」と家の敷地から1歩出た途端に軽トラにはねられて死ぬ可能性もあるのだ。

要するに、おれたちは「生」と「死」が刻まれたサイコロを常に振っているに他ならない。
それも単なる”偶然”で、ある日突然「死」と刻印されたサイコロの目が出ることもあるのだ。

おれたちすべてに言えることだが、「生きる意味」なんかない。
やってることは常にサイコロを振っているだけだ。

例えば、米津玄師や菅総理大臣がいくら「音楽で世界を変えたい」とか「日本を良くしたい」と言っても、勿論、彼らにはそれ相応の才能があるのだろうが、そのことが彼らの生きている意味ではない。
飯塚幸三に無残に轢き殺された母子のように、彼らもサイコロの目で運命が変わるだけの儚い存在でしかない。

これに対し「お前はなんで病院に通っているんだ?結局は生きたいのだろう?」と聞かれてもそれはちょっと違う。
おれは苦しいから病院に通っているんであって、なんなら治療中に死んでも構わない。

自分からマンションを飛び降りた某俳優のように、その場、その時の気分でそう言う選択をするかもしれない。

「死ぬ前は穏やかに息を引き取った」という奴がいるが、では聞こう。
東京大空襲で10数万人炎に焼かれて死んでいるが、それは「穏やかな死」か?
広島・長崎の原爆で数十万人の命が奪われたが、それも「穏やかな死」か?

ふざけるな!

死は万人に突然やってくる。
それも無残で無慈悲な方法で。
おまえの父母がベッドの上で死んだからと言って。それが「安らかな死」とは限らない。
それは、今の時代に生まれ、孝行息子に恵まれ、幸運にもベッドで死ねただけの話だ。

大体、お前らが言う「安らかな死」とはなんだ?
傍目に見て苦しまずに逝ったように「見える」だけだ。
本人は耐え難い苦痛をうけているかもしれないし、それを誰がわかるというのだ?

結局お前はお前の範囲でしか事象を判断できないし、それを何の疑問もなく受け止めるのは「バカ」だ。

ちなみに1つだけ言っておこう。
運命のサイコロの「生」の目は自分ではどうすることもできないが、「死」は自分で選べる。

ではまた。

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